ぶらり両国 その1

両国に行ってきました。
江戸時代の1659年(万治2年)12月13日に架橋され、当初幕府によって大橋と名づけられたが、両国橋と通称された。 これにより両国橋東岸の地域、現在の両国が神田、日本橋方面と直接結ばれ、以後江戸が隅田川をはさんで東側に拡大する足がかりとなりました。現在の両国を含む北側が本所、両国よりも南側が深川であり、双方とも江戸時代の新興住宅地域にあたります。

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両国駅。

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駅中に歴史ギャラリーがあります。

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両国と言えばやはり相撲。

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両国国技館
東京都墨田区横網一丁目にある大相撲の興行のための施設。また、ボクシングなどの格闘技の試合に使われることもあります。なお、番付では旧字体で國技館と表記しています。

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旧安田庭園
江戸時代においては、本庄松平氏(常陸笠間藩、のち丹後宮津藩)の下屋敷。元禄年間に本庄宗資により大名庭園として築造されました。安政年間に隅田川の水を引いた潮入回遊庭園として整備されました。明治に入り、旧岡山藩主池田章政の邸宅となります。都会のなかのオアシスです。

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横綱町公園。
当公園は元々陸軍被服廠があったところであったが1922年に赤羽(現在の東京都北区)に移転し、東京市(当時)が買収し公園として整備したものです。工事は1923年7月から始まったが、その最中の9月1日に関東大震災がおきました。直後、周辺の下町一帯から多くの人が、この造成中の公園を絶好の避難場所とみなして集まりましたが、16時ごろ、地震で発生した火災による熱風が人々を襲いました。避難の際に持ち出した家財道具に火が移り、さらに巨大な火災旋風が発生、人はおろか荷物や馬車までも巻き上げ、炎の中に飲み込んでいきました。結果、横網町公園に避難した人だけで3万8000人が犠牲になったといいます。震災後、その3万8000人の遺体はその場で火葬され、3メートルの高さになるほどの大量の遺骨はその場に急遽作られた仮設の慰霊堂に収容されました。

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東京都慰霊堂。
慰霊堂の設計は、築地本願寺や湯島聖堂を手がけた伊東忠太氏(1867~1954)によるものです。

当初は「震災記念堂」と名付けられましたが、昭和20年3月10日の東京大空襲などによる犠牲者(約105,000人)の御遺骨も併せてこの霊堂に奉安し、昭和26年9月に名称を「東京都慰霊堂」と改め、現在約163,000体の御遺骨が安置されています。


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終戦記念日でしたのでさまざまな行事が催されていました。終戦70年です。


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復興記念館
現在の建物は設立当時のもの。内部は第二次世界大戦に関する資料もある。また屋外には関東大震災で被災した物を展示しています。

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江戸東京博物館。
特別展、徳川の城をやっていました。
「江戸城、名古屋城、駿府城、二条城-。 家康たちが築き上げた「城」の魅力に迫る
関ヶ原の合戦に勝利し、征夷大将軍となった徳川家康(1542-1616)。全国の統治を強化するため、家康らは日本各地の重要な地点に城を築きました。 それらの城の数々には、幕府の権威の象徴であった天守や、江戸城の松の廊下や大奥に代表される荘厳な御殿が存在していました。
本展は、屏風や絵地図、工芸品など貴重な資料を展示するほか、現代の最新技術によって生み出された映像や模型などを駆使し、家康たちが築き上げた「徳川の城」 の魅力に迫る展覧会です。」


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もの凄い人でした。城人気恐るべし。
新国立競技場のういた予算でオリンピックまでに江戸城を築城してほしいものです。

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霧島。ちゃんlこ屋といえばここ。ビル8階全部ちゃんこ屋です。

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ボリュームおおすぎ。4人分くらいあります。こりゃ力士並になってしまします。

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必死で完食。うしろに中村ゆうじさんがいそうでした。

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陸奥部屋

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春日野部屋

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井筒部屋


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出羽海部屋

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両国は狭いエリアの中にいっぱい相撲部屋があります。

お昼なのでシーンとしていました。お昼寝タイムでしょうか。


その2へ続く。


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